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奈良時代の741年、聖武天皇の詔(みことのり)で、国府多賀城(724年建立)の西南10km、仙台市木ノ下
の地に14棟の大伽藍、国分寺が置かれた。
400年後には、奥州藤原氏(岩手県平泉)秀衡が手を加え、子院・僧坊が300を超える学問の中核になっ
た。秀衡が死んだ2年後、1189年、源頼朝により焼かれほぼ壊滅した。
1593年、朝鮮半島へ漕ぎ出そうとした政宗の軍船に一人の僧侶が同乗を請う。「私は、奥州国分寺の僧
侶、唐で仏教を学びたく機会をうかがっていました。同卿のよしみ、朝鮮まで連れて行ってください」僧を乗せ
た船は釜山到着前に、大しけに遭う。僧が数珠を鳴らして念じると波は収まった。
恩義に感じた政宗は御礼のため国分寺を訪ねたが、そのような風体の僧は居ないとのことであった。
「さては、本尊の薬師如来が化身となって守ってくれたか」
1605年、泉州(大阪)の工匠駿河守宗次に命じ、3年がかりで薬師堂、仁王門、鐘楼を建立した。
とのエピソードは別として、藤原秀衡以来の奥州の支配者『奥州王』としての宣伝のために再建したとの見方
が正しいようだ。
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奥の細道標柱と薬師堂 |
仁王門。国分寺の南大門があった |
参道 |
1689年5月、芭蕉と曾良はここを訪れる。当時この辺りは宮城野といわれ「萩」の名所だった。
翌日、榴岡八幡宮を経て鶴ヶ谷団地脇から今市橋を渡り、『十符の菅』、ネーミングの奥の細道を見学し、
多賀城・塩釜へ向かった。 |
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旧国分寺、金堂跡。 |
鐘楼 |
薬師堂本堂 |
薬師堂は、入母屋造り、本瓦葺きの大きな屋根が特徴。桃山様式ながら簡潔で素朴な力強さを表している。
国の重要文化財。(仙台市若林区木ノ下3丁目) |
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☆ 国分尼寺
陸奥国分寺の数百メートル東に、国分寺と同じく聖武天皇の詔により741年法華滅罪寺として建てられた
国分尼寺跡がある。1190焼失。 |
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国分尼寺山門 |
山門及び参道 |
現在の本堂 |
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