原 阿佐緒(1888-1969年) 
大正期の『アララギ派』歌人
       その容姿ゆえ、美貌の歌人と呼ばれた。

はら あさお は明治21年、宮城県宮城郡宮床村に生まれる。
原家は代々、宮床の分家伊達氏の家臣で塩や麹の販売を生業
としていた。
宮床小学校、吉岡小学校、角田小学校などを経て、宮城県立高等
女学校(現:宮城県立第一女子高等学校)に入学。
肋膜炎を患い中退の後、日本女子美術学校日本画科に入学。
下中弥三郎(平凡社社長)に和歌を教わる。

阿佐緒、22才の年、「女子文壇」に歌を投稿し与謝野晶子
より天賞を受け、歌壇にデビュー。


大正2年(26才) 処女作『涙痕』出版
大正5年(29才) 第2集『白木槿』出版
大正10年(34才) 第3集『死をみつめて』出版
昭和3年(41才) 第4集『うす雲』出版
昭和4年(42才) 平凡社より「阿佐緒叙情歌集」出版
その後、バーのマダム、演劇出演、映画出演するも失敗。
昭和10年(48才) 宮床に戻る
昭和44年  82歳で人生を終える。

仙台から北に20km、「七つ森」と呼ばれる小さな山々の麓に宮床(現:宮城県大和町宮床)は有る。原阿佐緒の生家は当時としてはハイカラな洋館で
あった。その建物は、現在「原阿佐緒記念館」となっている。その近くに「宮床宝蔵(歴史資料館)」と、歌の小道などがある公園が整備されている。
右の写真の左上は七つ森の山々。左下は、公園内の伊達家旧邸。右の上下は公園の風景。
 彼女が、人々の関心を集めたのは、
その歌よりもスキャンダラスに報じられた『男遍歴』である。

 病弱で常に受身であった阿佐緒は母の願いを受け入れ美術学校に
入学するが、そこの教師の小原要逸のために妊娠、長男千秋を出産
(阿佐緒20才)。
形式を重んじる原家は結婚式を故郷で挙げるも小原には既に妻子が
いることが判明し離婚する。

 二度目の夫、洋画家庄子勇との間に二男保美をもうけるが、
夫は阿佐緒の実家の金を当てにして働かず、協議離婚(32才)となる。

 三度目の恋。健康を害し東北大学付属病院に入院していた阿佐緒
を見舞ったのが、同じアララギ派の歌人で東北帝国大学教授、
アインシュタイン博士の愛弟子(日本への相対性理論の初の紹介
者)、石原 純。
石原の強い求愛に困惑し、知人宅に隠れるも結局同居することになっ
た。石原は学校を追放される。
 メディアはこれを大々的に取り上げ、
『日本の頭脳をたぶらかした
はしたない悪女』
との烙印を押した。
 石原の執拗な求愛に、当初、阿佐緒は躊躇っていたようです。 「生理的に好きになれない…」と、友人にも漏らしていたこともありました。
しかし、求愛を受けてもらえずに石原が首吊り自殺未遂などを起こすこと等があり、また周囲の干渉もあり石原のもとに行くことになる。

 大正九年(阿佐緒33才)から二人の生活が始まった、男女が一緒に暮らすのに矛盾があったが阿佐緒が求めたのは精神面での愛情であり、石原の
方はそうではなかった。二人の行き違いが次第に明確になり昭和三年(阿佐緒41才)阿佐緒は石原のもとを去る。
< 原 阿佐緒の人生 >アラカルト
お嬢様
 子供の頃、長い袂の着物を着て鼻緒のぽっくりを履く人形のように可愛い阿佐緒は常に羨望の的であった。ある日雨上がりの村道を歩いていた
阿佐緒は泥の中に足を取られ、泥に取られたぽっくりを取ることも無くそのままにして帰宅。 そんな、何にもしないお嬢さんだったようです。
当然、そのぽっくりは阿佐緒の家に届けられた。

 阿佐緒は相当な年になってから、『握手も接吻も同じく西洋風の挨拶だと思っていた』と、告白している。彼女は既に幾人かの男性に唇を与えて
しまっていた。
それが性的な意味を持つのだなどとは夢にも知らなかったので、うかつにも割りと平気で受け入れていたと言い、自分の一番不幸であったのは少
女の頃から西洋の絵画雑誌をたくさん見ていたことだと述懐している。

女王様
 大正8年(阿佐緒31才)、長男千秋を仙台の中学に通わせるため自身も仙台に住んだ。仙台では『シャルル』が大正元年に刊行され、賛助員とし
て若山牧水、斉藤茂吉などとともに原阿佐緒も名を連ねている。仙台のような地方都市では阿佐緒は押しも押されぬ有名歌人であった。彼女を
崇拝する青年たちが日夜出入りし、釘を打ったり棚を直したり、使い走りなども喜んでしていた。お姉さまと呼んで親衛隊を自認する元陸軍少尉な
どもいた。
 彼女にそうさせたのは、封建的な日本社会が西洋文明にさらされ、開放的になってきた時代の罪もかも知れない(…大原富江女史)

問題の恋愛事件の補記
 リアリズム、自然や生活を直視して歌うことを大切とする「アララギ」に入門したのは彼女の資質の自然の成り行きであった。
この「アララギ」を通じて問題の石原純と知り合うことになる。

 東北大学付属病院に見舞いとして訪れた頭の薄くなった中年の男性が石原であった。目ぶたを少年のように赤らめ、丁寧な口調の男性であった。
このとき石原には五人の子供がいた。これをきっかけに石原の歌会に出席するようになる。 彼の阿佐緒への傾注振りは並大抵のことではなく、
突然土砂降りの雨の中をずぶ濡れのまま、宮床の家を訪ねたり、彼のあまりにも性急な求愛を逃れるため東京・麻布に住む歌仲間、三ヶ島葭子
(みかじまよしこ)の元に身を寄せるも、そこへも押しかけたりした。 結果的に二人で千葉県保田に住むことになるが、阿佐緒41才の時無断で保田
を去り宮床に戻り破局を迎える。

「ないの、何もないの」
 石原と別れてから、七年間にわたり東京・大阪で酒場に出たり、演劇、映画出演するもどれも成功せず、室戸台風で歌稿も完全に流出し失意の
まま宮床に戻った。阿佐緒48才の年であった。その後、表舞台には顔を出さず阿佐緒は宮床で過ごした。敗戦後生活は困窮して来る、昭和26年
には生家は人手に渡ってしまったのである。 困窮に追い討ちをかけたのは、同じ時期長男・千秋が映画監督になり「子熊物語」という映画を企画
するが失敗。阿佐緒は更に債務を負うことになる。

知人へのお金の無心に、白紙にただ一行『ないの、何もないの』。あっけらかんとした、生涯の生活の汚れ一点無い、美しい童女のままの阿佐緒
がそこにいた。


映画への思いを、子供らが継承
 自らは失敗に終わった思いは子らに引き継がれている。映画監督の長男・千秋、映画俳優の二男・保美(NHKのドラマ・事件記者のべいやん役
等)、TVディレクター孫・夏郎、親類に菅原文太など。



<後記>
市町村紹介とお国自慢とを兼ねて、宮床と原阿佐緒を取り上げようとして写真取材をしましたが、そちらの知識が無いので資料を集め纏めました。

管理人のにわか勉強と、独断偏見に満ちた内容かもしれませんが、生誕100年記念として発刊された本等も『スキャンダルの渦中』の彼女を好意
的に評価しなおそうと言うものであり、地元の文学者を紹介しようとする私にとって心強かった。
 時代の波に翻弄されながら、恋愛も結婚生活の中でも幸福を得られず、世間の厳しい目にも耐えながらも強く生き、生まれたままの純粋さと気
品を失わなかった明治生まれの女性を少しでも判っていただければ幸いです。

  

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