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 ◆ 松尾芭蕉 奥の細道の足跡を訪ねて その2
仙台市内
      
  芭蕉が仙台に来たのは旧暦5月4日(四泊五日)、端午の節句の前日の夕方だった。とりあえず国分町・芭蕉の辻近辺の旅籠に泊まったが
翌日、紹介状を持ってその後の宿の提供者を探したが提供者は無かった。 仙台では、ここで仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風に会うつもり
だったが既に旅立った後であった。 みちのくの大都会・仙台に期待して来たものの、つてが無くなってガッカリしたと思われます。

 しかし、そこは良くしたもの、大淀三千風の知り合いの絵師・加右衛門に出会う。彼は仙台の歌枕の地を熟知しており、仙台東照宮、玉田・横野
(現在では場所を特定できず)を見た後、つつじが岡、木下・薬師堂を案内して貰いました。

 仙台を発ち多賀城に向かう日、加右衛門は松島や塩釜の所々の風景を絵に描いて贈り、さらに、紺に染めた緒をつけた草履を二足、選別とし
て渡した。芭蕉は、加右衛門のことを風流人とは思っていたが、旅立に当たり端午の節句のアヤメ(菖蒲)に見立てた紺色の鼻緒の草履を贈り物
としてよこすとは、本当に思ったとおりだと喜び、次の句を詠んだ。      
あやめ草 足に結ばん 草履の緒
国分町・芭蕉の辻
場所:宮城県仙台市青葉区大町1
 Map
アクセス:地下鉄広瀬通駅から0..5km
      徒歩 7分
青葉城大手門跡
場所:仙台市青葉区川内  Map
アクセス:地下鉄広瀬通駅から2km
      徒歩 25分

(市内観光循環バス・ループルが便利です)
青葉城跡
場所:同左    Map
アクセス:地下鉄広瀬通駅から2.5km
      徒歩   35分
(市内観光循環バス・ループルが便利です) 
 
国分町・芭蕉の辻
 名前は直接松尾芭蕉とは関係ありません。町の中心地で「(人の集まる)場所の辻」とか「芭蕉の木」が植えてあったとかから来ているようで
す。国分町は現在でも夜の盛り場、繁華街。また、ショッピング街一番町通りの一本西側になります。
 
青葉城址
 青葉城(または仙台城)は、1600年に、以前の居城・岩出山から移転し仙台に構えたもの。背後は青葉山山系、前に広瀬川が流れる。
城は天守閣を持たないが派手さが自慢の伊達政宗、本丸は1000畳敷きの大広間が有ったとか。
 明治維新で取壊され、現在は石垣と本丸跡の広場に政宗像が建っています。

亀岡八幡宮
場所:仙台市青葉区川内亀岡町
 Map
アクセス:JR仙山線国見駅から2.7km
      徒歩 35分
仙台東照宮
場所:仙台市青葉区東照宮
 Map
アクセス:JR仙山線東照宮駅から0.5km
      徒歩 7分
榴岡天満宮
場所:仙台市宮城野区榴ヶ岡  Map

アクセス:JR仙石線榴ヶ岡駅から0.5km
      徒歩 7分
亀岡八幡宮
 伊達氏の守護神で、当時は青葉城城門から入って参拝するのがルートでした。←芭蕉が青葉城内に入ったので『隠密説』の根拠の一つとなっ
てます。

仙台東照宮
 仙台藩第二代藩主・伊達忠宗が建立、徳川家康を祀った神社です。

榴ヶ岡(つつじがおか)・榴岡天満宮 
現在は市民の広場で桜の名所である榴ヶ岡公園と近くに芭蕉が参拝した榴岡天満宮がある。
陸奥国分寺跡山門
場所:仙台市若林区木ノ下
 Map
アクセス:JR仙石線榴ヶ岡駅から1.5km
      徒歩 20分
薬師堂
場所:同左

アクセス:同左
      徒歩 20分
十府の菅
場所:仙台市宮城野区岩切  Map

アクセス:JR東北本線岩切駅から1.8km
      徒歩 25分
木ノ下の薬師寺・陸奥国分寺
宮城野と呼ばれる広い地域のうち、この一帯は、松が生い茂げり「木の下」の地名も残す。
みさぶらひ み笠と申せ宮城野の木の下 露は雨にまされり」…『古今和歌集』
と歌われています。
奈良時代の741年に国分寺が置かれ、その後、源頼朝の奥州征伐で消失。1605年に伊達政宗により薬師堂などが再建された。

十符の菅
十符(とふ)とは、10の節の事でありこの菅で編んだ菅菰(すがごも)はきれいな模様が浮き出て珍重されたとのこと。
菅は近辺の湿地帯に一杯生えていましたが、この地のものが歌枕の"代表"となったようです。曾良の備忘録に「百姓屋敷の内にあって、垣で
囲ってある。今も国主に菰を献じている。ここまでの道は田の畔(くろ)で、奥の細道と言う」と記している。 現在は、個人宅の庭に有ります。 

多賀城市
多賀城・壷の碑(つぼのいしぶみ)
場所:多賀城市市川
 Map
アクセス:JR東北本線国府多賀城駅から1km
      徒歩 12分
多賀城政庁跡
場所:同左の北側

アクセス:同左
      徒歩 15分
野田の玉川、おもわくの橋
場所:多賀城市中央2  Map

アクセス:JR仙石線多賀城駅から0.9km
      徒歩 11分
多賀城・壷の碑(つぼのいしぶみ)日本三古碑の一つ
1689年新暦6月24日。芭蕉は多賀城の壷の碑に着いた。
芭蕉は、『[中略]この碑に至っては疑いも無く千年前の記念であって、今目の前に古人の気持ちを見ることができる。これも行脚の1つの恩恵
であり、生きている事の喜びであると旅の疲れも忘れて、感動の余りに涙もこぼれるほどであった。』と書き残しています。
石碑は、当時は苔で字が見えない状態であったがその後覆い堂が建てられた。

多賀城政庁跡
多賀城は724年に陸奥の国府・鎮守府として置かれ、約200年東北地方の政治の中心地であった。

芭蕉一行は、野田の玉川や沖の石を訪ねた。末の松山は、そこに寺を建てて末松山と呼んでいる。松の木立の間はすべて墓地であって、いつ
までも共に生きると言う約束を交わしても、最後にはこのようなはかないものだと、人生の無常を感じた。

野田の玉川、おもわくの橋
今の野田の玉川と「おもわく橋」。整備はされているが、「玉川」の面影はもうない。「おもわく橋」は、前九年の役で安倍貞任が恋人と待ち合わせ
たという伝説から「安倍の待橋」とも呼ばれている。
 
西行法師:『
ふままうきも みちのにしきちりしきて 人もかよわわぬ おもわくのはし』−千載和歌集
←沖の井(沖の石) →末の松山(宝国寺裏)
場所:多賀城市中央2  Map

アクセス:JR仙石線多賀城駅から0.9km
      徒歩 11分
沖の石
沖の石(沖の井)、住宅地に囲まれた小さな池のなかにある奇岩である。江戸時代には番人が置かれていたと言う。
右の写真の、右手の民家の上に見えるのが「末の松山」の松。

末の松山
その当時から寺だった場所。宝国寺の後ろにある丘を、末の松山と言い、お墓になっている。末の松山は丘になっているので、絶対に波は越えない
と言う前提を上手く利用して恋歌の枕詞に使われている。『
君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山波も越えなむ
   
…あなた以外の人を好きになったら、あの末の松山を波も越えてしまう。−新古今和歌集 

塩釜市と松島町
塩釜神社(塩釜市)の文治の灯篭
場所:塩釜市一森山
 Map
アクセス:JR仙石線 本塩釜駅から1km
      徒歩 12分
塩釜神社からの千賀の浦
場所:同左

アクセス:同左
      徒歩 12分
日本三景・松島と手前が雄島
場所:松島町松島 雄島 Map

アクセス:JR仙石線松島海岸駅から0.9km
      徒歩 12分
塩釜神社(塩釜市)の文治の灯篭  
拝殿の左右に、文治の鉄灯篭がある。「和泉三郎」は、奥州藤原氏、藤原秀衡の3男、藤原忠衡(ただひら)のこと。
彼は、文治5年、義経を最後まで守り、義経と共に兄の泰衡(やすひら)に滅ぼされた。23歳の若さであり、その2年前に灯篭を寄進している。

上段写真の中央は、境内から見る「千賀の浦」。塩釜港から松島湾内が見える。芭蕉はここから船に乗って松島に向かい、雄島に上陸する。

日本三景・松島
西行戻りの松と呼ばれる高台(アクセス:JR仙石線松島海岸駅から1.7km徒歩 22分 Map)からの松島の景観。右上の写真の中央陸続きに
見える一番右の島が雄島。雄島は、松島・瑞巌寺の僧侶の修行場だったところ。芭蕉碑と曾良の句碑が有ります。
松島や鶴に身をかれほととぎす』…松島よ。ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えてくれ。今鳴いているほととぎすよ。…曾良
    
雄島
場所:松島町松島  Map

アクセス:JR仙石線松島海岸駅から0.9km
      徒歩 12分
五大堂
場所:松島町松島  Map

アクセス:JR仙石線松島海岸駅から0.9km
      徒歩 12分
瑞厳寺(ずいがんじ)
場所:松島町松島 Mapは左参照

アクセス:JR仙石線松島海岸駅から0.9km
      徒歩 12分
五大堂
観光船乗り場付近の案内標と五大堂。その名前は5つの大明王を祀ることに由来する。

瑞巌寺
本堂は、1609年、伊達政宗の手により再建。熊野から材料を取り寄せ、京都・根来の大工衆が技を競った入母屋造の本堂(方丈)。
芭蕉が「金壁荘厳光を輝かし」と言った障壁画(修復・復元)が見事である。  828年開かれ、その後繁栄・衰退を経て政宗による再建後、
1636年、名僧雲居禅師の努力により名実とも奥州に冠する寺となり、周囲に30以上の寺街が形成された。
   

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