博物館・国際センター前( 大橋界隈 )
バスは、「博物館・国際センター前」に着く。ここは、青葉城大手門の前を流れる「広瀬川」に架かる大橋があり、両側が公園化されている。
東の市街地側には「西公園」があり、春は桜の花見スポット夏は花火大会の鑑賞スポットなど市民の憩いの場となっています。
また、西公園内には茶屋と仙台市天文台があります。あまりにも市街地に近く星が見えない天文台(館員の話)だとか。プラネタリュウムは
子供たちと良く通いました。
広瀬川 流れる岸辺 あの人は帰らず〜♪(佐藤宗幸:青葉城恋歌より)のイメージはいかがでしょうか? 
左は大橋からの南側の広瀬川。右は大橋の西、青葉城側の風景。この左手には仙台市博物館、真っ直ぐ進むと青葉城大手門に出ます。
左の写真は、バスストップ前の「国際センター」。この日は全国オンブズマン大会が開催されていた。  
右の写真は仙台市博物館入り口「五色沼」にある『フィギュアスケートの像』。ここ、仙台の五色沼(青葉城の外堀)は、日本で始めてフィギュア
スケートが行われた場所で、日本のフィギュアスケート発祥の地です。
左の写真は、仙台市博物館、博物館内の敷地には仙台関連の碑や像があります。  右の写真は寛永の3奇人・林子平のレリーフ。

林子平(1738〜1793)は旗本の次男として江戸で生まれたが、姉が当時の伊達藩主宗村の側室となったことや兄が仙台藩に仕えた関係で仙台
に移り住んだ。ロシヤが南下策(植民地化)を進めようとしている情報から日本の国防の必要性を説き「海国兵談(『江戸の日本橋より唐・阿蘭陀
まで境なしの水路也』の記事が有名)」や、「三国通覧図説」を著した。  「三国…」は、朝鮮・琉球・蝦夷・小笠原諸島などの地図で1832年に
仏訳本が発行され、後年『小笠原諸島は日本に帰属』の有力証拠書類となった。
しかし、この著書は、当時鎖国政策を取る幕府の忌諱に触れ、1792年版木を没収されると共に、仙台で蟄居を命じられた。
このわずか4ヶ月後にロシア使節ラックスマンが漂流民「大黒屋幸太夫」を連れて根室に着くなど日本開国の動きが始まるのである。

彼は、「親も無し 妻無し 子無し 版木無し 金も無ければ 死にたくも無し」と詠んで、六無斉と称し、失意の内に病死した。
仙台市市街地北部に「青葉区・子平町」という地名があり、同じく龍雲院に墓がある。
 仙台博物館の中に魯迅の功績をたたえる碑と魯迅の銅像もあります。

魯迅(本名周樹人:1881−1936)は、1904年から仙台医学専門学校(現:東北大学)において留学生活を送りました。
授業のときに日露戦争の報道スライドを見せられます。内容はスパイ容疑で処刑されようとしている中国人。それを周囲で無気力に眺めて
いるのがこれまた中国人。その光景を見て、中国人の健康より、精神面すなわち意識改革をする必要があると決意し、医者への道を捨て
文学に志したのです。これが、仙台の「幻灯事件」と呼ばれるものです。
         

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