■ 晩翠草堂 と 土井晩翠 | |
市内循環バス・ルーブル仙台に乗り仙台駅前を出て、二つ目の停留所が『晩翠草堂前』です。 『荒城の月』の作詞で有名な仙台出身の詩人・英文学者である土井晩翠が晩年過ごした場所です。 戦災で住居と蔵書を失った晩翠の為に 、教え子や市民有志が中心となり、昭和24年に、旧居跡に建設。『お粗末な建物ですが…』と、言う意味で草堂と名付けられたとか。 晩翠は、昭和27年に80歳で亡くなるまでの数年、ここで過ごしました。 |
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荒城の月[土井晩翠作詞 滝廉太郎作曲※著作権消滅] 一、春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいづこ 二、秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいづこ 三、いま荒城はよはの月 変らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし 四、天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月 ◆土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、 同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址 ◆滝廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址に それぞれ敷地内に歌碑が設置されているそうです。 |
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「千代」とは非常に長い年月を意味し、松の別名が「千代木(ちよき)」。千代は、長い年月の意味ではあるが、伊達政宗が「千代」(せんだい) を「仙台」(仙臺)と書き改めているため、仙台出身の土井晩翠が「仙台」を「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示して いるとも考えられる。 なお「仙台」とは「仙人の住む高台」を意味し、伊達政宗が住む山城の仙台城(青葉城)を示している。 城の名前から城下町も仙台となった。 ↓ 仙台城(青葉城)跡に有る 銅像 |
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土井晩翠(1871-1952) つちいばんすい。昭和9年 「どい」と改姓。 本名 林吉 仙台市北鍛冶町(現在の青葉区木町通)に生まれ、島崎藤村[関連頁]とともに日本近代詩に「晩藤時代」と呼ばれる大きな足跡を残す。 明治34年、仙台二高(現在の東北大学)で教鞭を取る為に帰仙、仙台で生涯を閉じた。 |
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